手仕事屋きち兵衛 車座 コンサート1

きくとら

2010年04月04日 02:33

  今日4月3日行ってきました

  桜の花咲く掛川城の東側


    大日本報徳社  

近くにあるのに知らなかったすごいこと!
あるなー位の知識でしかなかったけれども
びっくり!
文化財に指定されたことも知りませんでした。


幕末から明治に至る日本の黎明期、二宮尊徳の唱えた報徳思想の普及をめざし、
道徳と経済の調和・実践を説き、困窮にあえぐ農民の救済をめざした報徳運動が
全国に広まりました。
尊徳門下の岡田良一郎の力強い指導による活動が盛んだった掛川は、
やがて全国の報徳運動の中核地となり、この地に「大日本報徳社」
が開設されたのです。
報徳運動の創始である二宮尊徳は幼名を金治郎といい、
少年期に両親と死別。以後、貧しい暮らしの中で勤労に励み、
倹約を重ねながら、かたわらでは独学で豊かな幅広い見識を育み、
やがては、全国各地の困窮した農村の救済にその手腕を発揮することになりました。
破綻した農村を救済すべく全精力を傾け、その行動から培った知恵を、
二宮尊徳が体系的思想として唱えたものが「報徳の思想」です。
報徳の思想は、たんなる説法や論理ではなく、江戸末期の日本の農村現実に
即した実践的なもので、理論は行動と一体をなし、
さまざまな生活様式(仕法)として体系化されて人々の暮らしに定着してゆきました。
人間の欲を認めながらも、しかし周りとたくみに調和させながら、
心も金も同時に豊かに育もうという、この優れた実践思想は、
やがて農村救済という枠を大きく超えて幅広い分野に浸透しました。
渋沢栄一、安田善次郎、松下幸之助、土光敏夫をはじめとする、
多くの事業家たちにも多大な影響を与えるなど、歴史的・世界的見地から
みても卓越して深遠な報徳の思想は、今も脈々と社会に息づいています。

(リーフレットより)


報徳の思想を形成する三つの柱は、
『勤労』、『分度』、『推譲』

『勤労』は、積小為大という言葉に代表される考え方です。
大きな目標に向かって行動を起こすとしても、
小さなことから怠らず、つつましくつとめなければならない
ということ。
「今まく木の実、後の大木ぞ」という
尊徳の有名な言葉が残されています。


『分度』とは、適量・適度のこと。
分度をしっかり定めないままだから、困窮してしまうし、
暮らし向きも楽にならない。
家計でも仕事でも、現状の自分にとってどう生き、
どう行うべきかを、知るということが大切だという考えです。


『推譲』とは、肉親・知己・郷土・国のため、
あらゆる方面において、譲る心を持つべきであるという考え。
分度をわきまえ、すこしでも他社に譲れば、周囲も自分も
豊かになるものだという教えです。



二宮 尊徳(にのみや そんとく、天明7年7月23日(1787年9月4日)
- 安政3年10月20日(1856年11月17日))は日本の
江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と呼ばれる
農村復興政策を指導した農政家・思想家。
通称は金次郎(正しい表記は「金治郎」)。
諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓む。

なぜ学校の校庭にほぼ 二宮尊徳像がある理由がわかりました。
薪運びをしながらも勉強をしたからというところしか伝わってませんね。


掛川西高に通っていたのにこんなことも知らなかったのかと思うと恥ずかしいです。

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